2024/11/18
不思議な石碑
ホームセンター事業部のSです
出張の多い生活を送っていると出先で不思議なものに出会うことがあります
青森県のとある町でのことです。目的地に向かう道すがら車を運転していたところ
沿道に「日本中央の碑」発見地という看板が
ここは青森県、日本の中央?
すぐ停車し携帯で検索をかけたところそう遠くない地点に日本中央の碑保存館があるようです
立ち寄ります
保存館の中央にその石碑が鎮座しています(ちなみに入館料は無料です)
確かに1.5mほどの石碑の真ん中に「日本中央」とうっすら書かれています
ともかくも館内の説明文を読むことにします
簡単に要約すると
石碑は昭和24年(1949年)の発見。古歌に詠まれた名所を歌枕というがその中に「つぼのいしぶみ」がある
言葉としては坪ないし都母(つもあるいはつぼ)にある石碑、歌枕として使用すると遠くにあるもの、どこにあるのか誰もわからないの意
歌学者の藤原顕昭が12世紀末に編さんした『袖中抄』に『日本の東の果てに「つぼのいしぶみ」というものがあり、
それは坂上田村麻呂(758年?~811年)が弓のはず(弦をかける部分)を使って「日本中央」と彫ったものである』
しかし田村麻呂の蝦夷征討の軌跡は盛岡市近辺の志波城までであってそれより北には行っていないので
実際は坂上田村麻呂に続いて征夷大将軍となり都母まで進軍した(811年)文室綿麻呂がきざんのであろう
「日本中央」の「日本」は「ひのもと」と詠み、大和朝廷の権力支配が及ばない蝦夷の地という意味である
といった内容です
この石碑が実際に歌枕にいう「つぼのいしぶみ」なのか(宮城県に多賀城碑という別候補もあります)
あるいは本当に1200年以上前の石碑なのかどうか
ここではその真贋はおいておきます。
石碑が本物だとして坂上田村麻呂せよ文室綿麻呂にせよなぜこの地で日本中央ときざんだのか
好奇心が刺激されます
説としては
・北海道や千島列島までを日本の領土とみなして、ここを中央と確定した
・.にほん、にっぽんでは無く“ひのもと”と読ませる。平安初期の文献によると“東北地方”一帯を指す言葉として使われていたらしい
綿麻呂が蝦夷と戦った際、軍を引き上げるに際し対面を保つために、
今後叛意を示さない限りここはお前たちの土地であるとの印に、蝦夷の中央の意味の「日本中央」と書いて与えた
特に後者の説は現在の視点からだと思いもつかない過去の視点があるという証左で面白いと思います
以上、以前ふれたキリストの墓にせよ青森県の特異さ
なにげない日常の中にこういったものが存在するおもしろさがあります
是非みなさんにも実際に現地に赴いて思い思いに想像を巡らせてもらいたいと思います