戦時下、弱冠23歳で肌勢商店を創業

ダイドーハントの源流は、1939年(昭和14年)8月15日、初代社長肌勢源治が創業し た「肌勢商店」に遡ります。日中戦争の拡大に伴い、奉公していた鉄鋼2次製品の卸問屋が廃業することになり、丸釘や特殊釘を扱う個人商店として独立したの が最初です。前年から始まった金属製品の製造制限が徹底されるなど、戦時体制が強まるなか、弱冠23歳で独立を決意した初代社長。卸問屋時代のお客様を大切にしながら、新しいお客様の開拓を目指し、果敢な挑戦が始まりました。

モノのない時代を見据え、製造業に進出

創業から2年後の1941年(昭和16年)、日本は太平洋戦争に突入しました。初代社長も1944年に中国に出征。激しい戦火をくぐり抜け、戦争の終結とともに1946年に無事帰還しました。戦後の混乱が続く1948年9月には、事業の再出発を目指して肌勢商店を発展的に解消し、大阪市天王寺区空堀町に「株式会社大同製鋲所」を設立。製釘機、製鋲機を導入し、玉造工場として製造業に乗り出しました。戦後のモノのない時代を見据え、販売だけでなく製造業というモノを作り出す事業で飛躍を目指したのです。

パチンコの第1期黄金期到来を予見

営業活動は主に名古屋や東京で行われ、東京出張の場合、朝6時ごろ東京駅に着く夜行列車を利用していました。今では考えられない不便な営業活動を続けるな か、東京のある問屋からパチンコ台の釘の製造について相談を受けました。これに対応し、娯楽の少ない時代のパチンコの人気を踏まえ、1951年(昭和26年)からパチンコ台の釘と玉の生産を開始。その後、1953年には全国のパチンコ店が38万店を越え、パチンコ台のメーカーも約600社に達するなど、パチンコの第1期黄金期の到来を予見した事業展開となりました。

高度成長の波に乗り、新しいアイデアで事業展開

1955年(昭和30年)2月になると、深江工場を新設して伸線機を設置。鉄鋼メーカーから線材を購入し、線材を細く伸線して釘・鋲を製造する一貫生産体制を確立 しました。この生産体制が軌道に乗るとともに、1959年には東南アジアへの輸出を開始。ダイドーハントのグローバルな事業活動の端緒となりました。さらに、1970年には東大阪市高井田に倉庫と工場を新設。倉庫には業界に先駆けて立体倉庫を設置したほか、経理部門にはタイガー計算機をいち早く導入するなど、つねに新しいアイデアを取り入れた事業活動を展開しました。

安易な人員削減のないリストラを推進

1973年(昭和48年)10月、日本を襲った第1次石油ショックにより業界が不況に陥るなか、当社は1977年から製造部門の縮小に着手。29歳にして陣頭指揮を任された肌勢勝彦専務(現社長)が、会社の存続をかけ事業の再構築(リストラ)に取り組みました。このリストラは安易な人員削減を行わないという会社方 針のもと、定年退職による自然減を図った結果、工場を持たずに外注生産に移行するまで20年という長い年月を要することになりました。そして、人を大切に するダイドーハントの企業風土はこのころ芽生えました。

ダイドーハントの今日につながる英断

リストラによって製造部門は縮小するものの、それに伴い売上高も半減。それまで着実に成長を遂げてきた当社でしたが、まさに創業以来の苦境に直面することになりました。このため製造部門の縮小を進める一方、営業マンの新規採用により営業体制を強化。名古屋・東京が中心だった営業活動を全国に展開するとともに、文字通り背水の陣で新規開拓に取り組み、6年後の1983年(昭和58年)、半減した売上高の回復を果たしました。第1次石油ショックという逆風を受けながらも、より大きな可能性を目指し事業の再構築に挑んだ肌勢専務。当社の第2創業期を切り拓く英断でした。

グローバルな発想で海外生産へ転換

1985年(昭和60年)のプラザ合意により、急激な円高が押し寄せ、海外に工場を移転する企業が増えてきました。この当時から肌勢専務はアメリカや中国など海外視察にたびたび出かけ、とくに東南アジアでは大手弱電メーカーの進出を目の当たりにしました。その実情に、専務は国内で製品を作る時代が終わった ことを実感。当社の外注生産も国内へのこだわりを捨て、グローバルな発想のもと、海外生産への転換を決断しました。1986年には韓国からOEMにより釘を輸入。肌勢専務が社長に就任した1987年には、製釘機をマレーシアに送り当社初の海外生産を開始しました。

ピンチをチャンスに変えた不屈の精神

1992年(平成4年)5月には、本格的に海外に進出。中国山東省烟台市で、当社と地元の国有企業及び日本の貿易商社の3社による合弁会社「烟台大同五金有限公 司」が生産を開始しました。しかし、合弁会社での生産は軌道に乗らず、1年間に3人も工場長が代えられるなど数々のトラブルに見舞われ、1994年には肌勢社長が撤退を覚悟するほどの状況となりました。そうしたなか、運よく烟台市の常務副市長との人脈が生まれ、最悪の事態は一挙に好転。2001年の新たな合弁会社「烟台漢都金属制造有限公司」の設立につながりました。苦難をものともしない不屈の精神が運を引き寄せ、人脈がピンチをチャンスに変えたのです。

転機となった2つの革新的な取り組み

一方、国内においては1980年(昭和55年)から2つの革新的な取り組みを開始しました。そのひとつが一般消費者をターゲットにしたDIY分野への進出です。展開にあたっては“手”を意味するドイツ語を冠した「ハント事業部」を新設。DIY市場の将来性を考え、ホームセンターへの販路を拡大しました。
もうひとつの大きな取り組みが、住宅金融公庫が推薦する規格金物「Zマーク金物」の生産です。それまで当社にはなかったボルトやプレス金物など、一連の建築金物の生産を開始し、DIY分野への進出とともに当社の大きな転機となりました。

「邸別出荷」の先駆者としてビルダーに拡販

建築金物の拡販は工務店などのエンドユーザーをメインターゲットとして積極的に展開しました。その戦略は単に建築金物を売り込むのではなく、住宅一棟分の建築金物をパックして全国各地の建築現場に直送する「邸別出荷」をシステム化。1993年(平成5年)から西日本の先陣を切って開始しました。この邸別出荷の発想は当時のプレカット工場の趨勢から生まれたもので、「必要なとき」「必要なだけ」「必要な場所」に届けるという画期的なシステムとして、すでに42万棟を超える出荷実績を誇っています。

ホームセンターと直結し、下請けから脱皮

DIY商品の取り扱いを始めた当社でしたが、販売ルートは問屋経由という下請け的なものでした。そうしたなか、90年代の終わりごろになると、一般消費者を顧客にしていたホームセンターが住宅の施工業者を対象にした資材館などを設置し、プロ向けの販売戦略を展開するようになりました。これを受け、当社も1998年(平成10年)から直接ホームセンターに向けて販売を開始。ホームセンターの戦略を通して時代の流れを読み、ホームセンターの動きと歩調を合わせることで、下請け的な業態から脱皮しました。

「株式会社ダイドーハント」の誕生

2004年(平成16年)、株式会社大同製鋲所は事業部から独立させていた「株式会社ハント」と合併し、「株式会社ダイドーハント」を設立。当社にとって第3の創業期を迎えました。また同年、埼玉県川口市に東日本物流センターを開設。大阪府東大阪市の高井田物流センター、兵庫県西宮市の西宮物流センターと合わせ、東西3拠点の物流体制を確立しました。これにより、日本全国を網羅する物流ネットワークが完成し、新生ダイドーハントのスタートに弾みをつけました。

これからも時代の半歩先を見つめて

近年、エコへの関心が高まるとともに自然エネルギーの活用が見直され、太陽光発電が大きな注目を集めています。こうした時代の半歩先を見つめながら数々の革新を重ねてきたダイドーハント。2009年(平成21年)からはソーラーの分野に進出し、これまでに培ってきた建築金物のノウハウを生かした事業展開を開 始しました。
ダイドーハントはこれからも時代から半歩踏み出した革新的な製品を市場に送り出すことで、広く社会に貢献していきたいと願っています。